明治・大正・昭和を生きた、三浦浩の青春と人生!
深川勝三監督作品第2弾!! 
三浦浩翁半生記

---三浦浩翁って誰?---

睦聾唖映画演劇研究会の初代会長であった三浦浩氏は、 明治19年秋田県に生まれた。
14歳で東京盲唖学校(現・筑波教育大学附属聾学校)に入学し、苦学の中、やっと文章を綴れるようになった。
そして念願の教師となり、ろうあ教育に身を捧げ、多くの障害者の希望の灯となる。
横尾義智、藤本敏文氏とともに日聾協の三羽烏(さんばがらす)とうたわれた。
昭和37年、この映画の完成を待たずにて逝去。
76才の三浦翁
晩年の三浦浩(1886〜1962)

-----日本では唯一!ろう偉人を扱った映画-----

この映画はモノクロで「前編」「後編」「完結編」の3部作からなっています。
1年に1作品のペースで、最後の「完結編」クランク・アップは昭和39年(1964年)。
昭和40年11月、東京・黒門会館にて完結編完成披露会。
3部作合わ せると、約7時間に及ぶ驚異の長編劇映画!
しかも1本3分しか撮影できない8ミリフィルムを使用。
フィルム編集作業も容易ではなく、深川監督の苦労が伺えます。
無理がたたって監督は脳貧血で倒れ、編集作業が中断しました・・。
明治時代の設定なので、時代考察にそった衣装や髪型に仕上げるのも大変だったのです。

深川勝三監督
深川勝三監督(1924〜1985)

-----完成までの道のり-----

製作には幾多の困難な問題が出て、多少の不安がありました。
シナリオが完成するまでの3ヶ月、三浦先生は雨の日も風の日も休まず、老いた体に鞭打って深川監督と打ち合わせをされました。
問題は、全面的に明治時代の設定で、東京周辺の田舎地帯などロケ地を探し回るという苦労もあったのです。
夜行列車に乗っての遠路撮影もありました。
そのうえ、日曜日だけの活動のため、時間も惜しく目的地に着くと、すぐセットし、深夜から室内撮影を始めたのです。演者は朝・夜番と分かれ交代で演じたが、監督は一睡もせず徹夜でやり通す。
海水浴や相撲のシーンでは、鳥肌が出ても唇が紫に染まっても、全員愚痴を言わず助け合う。
母親役の髪型(日本髪)は近くの美容院で1時間かかり、おまけに高い料金なので1日で撮り貯めしなければならない。
高い面から下へ向けて撮るシーンは、クレーン車を頼むのが不可能なため、監督が現場の古い屋根に登り撮影。瓦にひびがあり、割れる恐れもあり、毎回悪戦苦闘の連続・・。
フィルム編集も容易ではなく、一巻仕上げるのに徹夜で十日かかったのでした。
数々の苦悩を乗り越え、とうとう珠玉の作品を完成させたのです。

打ち合わせ中
シナリオ作成にあたり三浦先生に意見を仰ぎ、資料を集める深川監督


-----あらすじ-----

24歳の佐久間将夫が14歳の少年を演ずる!
主役の佐久間将夫
時は明治33年。父に連れられてはるばる故郷の秋田県から上京した浩は14歳。
学問のない浩にとって、東京盲唖学校の入試試験は困難であったが見事にパス。
入学当時いつも下から一、二番だったのが、努力と熱心さの甲斐あってなんと組長にまでなった。
学業成績はうなぎ上り。ある日大切な教科書がなくなった。果たして誰の仕業か?
折から浩の兄が上京してきたが、些細なことで意見が対立し兄を怒らせてしまった。
学校生活に慣れた浩だが、級友の中川君は何故か浩を憎み、冷たい目で見るのだった。

明治時代の書生の寮生活や痛快な交友ぶりが見ものです。

父と上京
父とともに5日かかって上京のシーン、上野公園の西郷隆盛像前にて。
左から父役の高正次、浩役の佐久間将夫、撮影中の深川勝三監督